ポイ活とオタ活と私

あるオタクの単調な日常

学習塾で社員からいじめられているバイト講師の話

久々に書き残しておきたいことがあって、はてなブログにやってきました。

コロナ禍のどさくさに紛れて、学習塾で、いじめられているとしか思えない状況からお送りします。

以下、本人に言うことを想定しながら書いたメールや手紙のような表現のまま、掲載します。

一人称は「A」と書きかえています。

 

 

特別な能力がないAが、学習塾でこんなにも長い間仕事をさせてもらえて感謝してるのですが、一方で、途中で入ってきた人からこのような仕打ちを受けるのは不本意でしかないです。

 

いただいた指示に対して、生徒のレベルを考えて、変更した方がいい、まだこの内容は厳しいんじゃないかと、生徒と話した上でこちらから意見を伝えたことがそんなに気に障ったのでしょうか。
一旦変更した方がいいと思う旨を伝えても、これをやってくださいと言われましたが、熟考した結果、やっぱりその生徒達には厳しいなと思ったため、当時責任者で長年お世話になっていた人に相談することが、そんなにいけないのでしょうか。

 

 

Aは、自分が使いたいテキストや取り組ませたい内容を提案したわけではありません。
このままでは志望校に到底及ばない生徒達は、指示していただいた志望校レベルのテキストはできませんので、まずは基礎固めをして一歩上の段階に進めるようにすることを考え、提案しただけです。

指導者として指示内容に納得しきれなかったため、「このテキストと分量はAは厳しいと思ったけど、社員の方々から指示をいただいたから、宿題でできるところまでやってみてほしい」「難しくてできないなら、Aではなくて指示をくれた社員の方に言ってほしい」と生徒に伝えることに問題があるとすれば、その疑問を解消すべくAを説得することが、先決ではないでしょうか。
指示通りにやっていこうと決心して、その旨を書いたメモと宿題を生徒用ファイルに入れておいたのに、抜き出したのはなぜでしょうか。

指示を与えた本人が、当時の責任者に、抜き出したプリントごと渡して何を言ったのかはわかりません。
Aはただ、当時の責任者から「こういうものは入れないでください」と言われたのですが、その宿題に貼ってあった付箋の筆跡は、指示を与えた人のものでした。
とても細い付箋に書かれた文字は、過去に他の付箋やプリントに書かれた文字と比べても、指示を与えた人の文字であることは明らかです。

 

当時の責任者の方は、生徒用ファイルの中身を頻繁に確認するわけではないことは、何年間か塾にいればわかることでした。
そのため、メモと宿題を抜き出したのは指示を出した人であると思い、尋ねましたが、そこで「知りません、○○先生(責任者)に言われたなら、取ったのは○○先生じゃないですか」と叱責されました。
Aはそれを、付箋が貼ってあることに気づく直前に尋ねていました。

そのため、勘違いだったのかな、申し訳ないことをしたな、と思ったその一瞬は何だったのでしょうか。
筆跡だけでなく、そこに書かれている内容は、生徒用ファイルにメモと宿題が入っている状態を見た人でなければ書けないものでした。


右、左。


もう少し言葉が書かれていましたが、その文字だけでも、何のことであるかは、生徒用ファイルにメモと宿題が入っている状態を見て抜き出した人と、プリントを入れたAにしかわからないことです。

 

生徒側も、自分のレベル・性格を毎週対面の授業で見られている相手と、面談や声かけの際に見せている相手では、姿勢が異なります。

模試の結果や定期テストの点数ではわからないことが、対面の授業ではわかる場合もありますし、その逆もあるでしょう。
しかし、指示をしていただく方々は、志望校合格への学習計画立案のプロ、性格分析のプロ、指導者育成のプロであると思いますので、そのような方々からの提案に対して意見を述べるなど、身の程知らずであるということを認識しました。
プロの方からいただいた指示に従うことは、当然です。
資格のない素人など、意見を述べる余地はないのです。

 

この塾を辞めていった方々は、もっと沢山の理不尽な叱責を受けていますので、Aの例は大したことではないと思います。
長年、この学習塾に通っていた生徒が、その後バイトとして入ったものの、同様に理不尽なことで辞めていった人もいます。

 

どんな集団でも、このようなことは頻繁に起こっていることであり、自分だけが酷い扱いを受けているとは思いません。
社員の、プロの方のご意見に対して何一つ疑う余地はなく、バイトは忠実にそれを実行することだけが求められるのです。
そのような考えを受け止め、ただ実行するよう努めることが、Aにとってどれほど苦痛を伴い困難なことであったかということなど、どうでもいいことでしょう。

それがこの集団の在り方なのですから。

 

ただ、A自身、今この状況下で思うことがあります。

 

「Aはいじめを受けています」

 

「Aに対して仕事を与えていないって?

いいえ、Aに与える仕事がないからです。」

あなたはきっとそのように言うてしょう。

しかし、これはいじめです。

 

あなたは自分の思い通りに動かない人に対して、現在の責任者であると言う立場からではなく、自身の好き嫌いという感情で判断し行動しているのです。

Aを嫌うこと、Aに関わりたくないと思うこと、それは個人の自由ですから結構です。

しかし、あなたは今、この学習塾の責任者です。

Aは、他の社員に対して何度もSOSを発信しています。

そのSOSに気づいてもらえるよう、工夫して発信したのです。

ただ、どの社員も、自分が巻き込まれたくない、面倒なことには関わりたくないという思いはあるでしょう。

どちらの味方になるか?

それとも見て見ぬふりをするか?

 

Aをいじめることが責任者としてのあなたの行動であるならば、責任者の言動はその集団全体の方向性を示すものであることは、どの集団でも同様でしょう。

 

つまり、この学習塾はいじめを行っています。

 

責任者とは、責任を持つことができる者であると同時に、責任を持たされている者でもあるのです。

責任を持たされているということをお忘れではないでしょうか?

学びの、教育の場でありながら、いじめを行っているという場であるという事実に対して、あなたはどのように責任をとるのでしょうか。