ポイ活とオタ活と私

あるオタクの単調な日常

一を聞いて十を聞かされる

普段の生活の中で、「めんどくせー」ってことはたくさんあるが、それを吐き出すために文章を書くのも「めんどくせー」ってことをわかった上で「文句があるならブログでも書けばいいじゃん」って言ってほしかった。

そもそもこのブログは、「そんなにいろんな文句があるなら、自分に言われても困るから、自分の友達みたいにブログにでも書けばいいじゃん」と言われたので作ったブログだった。

人のブログでの誤字脱字を見て笑っているその人は、書くことの労力なんてわからないだろうから、気軽にそんなこと言うのだろう。
なぜなら、日常の些細な不満や愚痴は、その場で一言ズバッと言っちゃえば、一瞬ですぐに済むからだ。

なのに、なぜその場で言わずにわざわざグッと堪え、しばらくの間、そのイライラやモヤモヤをどうにかして解消しよう、忘れようとしなければならないのだろうか。

 

怒りやそれに起因する悩みをスパッと解消できるタイプではない自分において、そのイライラは溜まる一方でしかない。
好きなテレビや音楽や食べ物とか、そういったこととは違う次元にあるため、美味しいケーキを食べて「あぁ、幸せ~」となっても、急にふとイライラの根源を思い出し、「いやまじ意味わかんねぇ」となって…の繰り返し。
やがて、怒りを抑制できる心の容量ををオーバーすると、一気にブチ切れる。

 

以前は人に当たることもあって、言葉でバーッと、それまで抑えてきたことを言っていた。
けれど、言われた人は「自分もこれほど我慢している」という、自分がいかに耐えてきたかということを言い返してくる。
そして、そこから、こちらが話す気持ちにもならないほど、こちらが聞いていようがいまいがお構いなしに、ひたすら自分の愚痴を話し続ける。
もはや、私は単なる愚痴聞き係でしかない。

 

そんなことを何度も何度も繰り返してきた。
良いことも悪いことも悩みも不安も、話したいことはあるのに、こちらが話しても結局は相手の愚痴聞き係となって、途中からテキトーに話を聞き流していても、疲労感でいっぱいになって終わる。


昨年夏頃から、環境の変化に伴って、自分の考え方も変えていくように少しずつ少しずつ意識してきた。
仕事に関することも含まれるが、「言われたことだけやってりゃいいから、余計なことはしないようにしよう」「イライラしないようにしよう」「穏やかに過ごそう」等と意識することで、それから半年以上経った今、「我慢できている自分」が少しずつ形成されている。
ただ、「我慢できている自分」、つまり世の中の人や物事に関して言いたいことはあるが、それを言わずに我慢できている状態でいるためには、「何も話さないという我慢」が必要である。
そして、その「何も話さないという我慢」は「自分には話す権利も資格もない」という意識を常に持ち合わせていなければ達成できないことである。


それが今の私の状態だ。


「一を聞いて十を知る」

物事一端聞いて、その全体像理解すること、又はその能力

 一を聞いて十を知る - ウィクショナリー日本語版

 一を聞いて十を知るとは、物事の一端を聞いただけで全体を理解するという意味で、非常に賢く理解力があることのたとえ。 

一を聞いて十を知る - 故事ことわざ辞典

 

本来の意味での「一を聞いて十を知る」が積極的で肯定的な意味合いのものであるならば、十を知りたいと思わずとも十を語られ、「十を聞いて一を知る」どころか、そもそも一は何だったのかというほど論点が外れ、一を知りたいという気力さえなくなることがしばしばある。

 

それは「一を聞いて十を聞かされる」ことである。

 

わからないことや知りたいこと、聞いてほしいことを、何か一つ相手に伝えたとする。

最初は、一に対する答えへの導入を述べる場合もあるが、概ねすぐに一への答えが返ってくる。

次に、一やその答えに関する背景を付け加えることもあり、それが二、三となっていく。

その辺りまではこちらも意識的に耳を傾けることができる。

 

しかし、一から論点が外れていき、四、五と、相手が話したい別の内容を盛り込んでくると、こちらの関心が薄れて「我慢し始めている」状態であるのに反比例して、饒舌になっていく相手は六、七と一人で進んでいく。

次第に、かろうじて「我慢できている」状態では相槌など不可能になってくるが、話したいことを話している相手は、相槌などなくとも八へと進む。

九に入った段階で、いや、それより早い場合もあるが、こちらは既に意識が「無」の状態であり、それは「我慢」を越えた状態にいる。

そのような状態であるため、いつ十を迎えたのかは自分だけではわからないことが多いが、こちらから一を投げ掛けた手前、途中で話を止めるように促すことができず、「何も話さないで耐える」というこちらの状態に相手が気づいた時、ようやく十を迎える。

ただ、その十は相手にとってはまだ五から六程度でしかなく、反対にこちらにとっては百や千という単位では数えられない、次元を超えた大きさになっている。

 

私は人の話を聞くことが苦手だ。

ゆえに、一を聞いたら一、二、せいぜい三までの返事で十分である。

それではあまりにも都合が良すぎるのではないか。

そう思われても反論はしないし、その通りだと思う。

しかし、私が求めているもの、尋ねたものは、一に対するストレートな答えであり、それを裏付けるような原因や理由だけである。

それにまつわる相手自身のエピソードや、派生した話題は必要ではない。

特に、一への答えとはかけ離れており、自分は興味がない内容を話し出されると、私が意識を「無」にするよう努めても、相手は自身の関心事への情熱が凄まじく、私の「無への努力」を上回ってくる。

早ければ五や六の段階でその努力に着手するが、九や十の段階になる頃には血の気が引いているのが周りから見てわかるほど、私の意識は無を越えたどこかに行っている。

 

自分の興味のない話へと誘導されないようにするには、どうすればよいのか。

そもそも話題を投げ掛けなければ良い、一を聞かなければ良いのだ。

十を話したい人は、自分から一を聞くのではなく、一を聞かれることを待っているからだ。

 

私は、一を聞かないために「何も話さないという我慢」をすることで、「我慢できている自分」を維持しようと努めている。

しかし、もしかすると、一を聞かれたら十を話したい人もまた、一を聞かれない限り「何も話さないという我慢」をしているのではないだろうか。

どちらかが「我慢」できなくなった時、再び「一を聞いて十を聞かされる」階段をのぼり始めることになる。